フォロンのポスター「Folon: Graphic Design」 |
日本国内で印刷された数少ないフォロンのシルクスクリーン・ポスター。刷りは伝説の印刷所、サイトウプロセス(1)。フォロンの日本初の個展は、「グラフィックデザイン」誌を創刊したデザイン評論家の勝見 勝(1909-1983)氏の発案により、1969年に銀座の壱番館画廊(1964~1971)で開催されました。同年発行の「グラフック・デザイン」第34号でも巻頭特集としてフォロンを取り上げており、おそらく個展に際し日本側で制作されたものではないかと思われます。ポスターの構図はフォロンが1968年にアパレルメーカーのキャシャレルのためにデザインしたポスター「Cacharel No.1」の構図を左右反転し、彫像を置く台座の上に、モデル(シャンタル・ミロ)の代わりに帽子の男を据えたものです。ただ構図を左右反転させたことで、全体が傾いでいるように見え、画面奥への流れがスムーズではありません。一方、フォロン自身が個展用にデザインしたポスターは、アルミ箔をコーティングした紙を使ったシルクスクリーンポスターで、パリのジャック・マルケの工房で制作されています。
注:
1.サイトウプロセスについて:
●“サイトウプロセスはシルクスクリーンの刷り師がいる小さな町工場で、デザイナーたちが日宣美に応募するためのポスターを10枚単位で刷りに行っていた。そこがインディペンデントのアーティストたちをサポートしたんです。サイトウプロセスはもう解散していますが、その時に保存していたポスターをすべて武蔵野美術大学に寄贈したので美術資料図書館のコレクションが素晴らしいんですね。シルクスクリーンというのは要するに版画なので、別に印刷会社に持って行かなくても自分の家でも刷れる。状況劇場や天井棧敷のポスターはサイトウプロセスなどの印刷屋で刷っていますが、自由劇場の串田光弘さんのものは自宅で自作したものです。だからサイズがA全だし、干して乾かす時に使った洗濯バサミの跡が残っています。シルクスクリーンは職人的な刷り師の世界であると同時に、自分たちの手づくりで印刷費をかけないで自由にできる表現だったから、若いデザイナーたちの表現手段として、武器として普及していきました” ― 国際交流基金が創刊し毎月更新しているウェブサイト:Performing Arts Network Japanに紹介された《Presenter Interview-Another aspect of Japanese theater communcated through posters(プレゼンター・インタヴュー:ポスターが伝えるもうひとつの日本演劇)》、株式会社ポスターハリス・カンパニーの代表を務める笹目浩之氏へのインタヴューより抜粋。
●1954年、斎藤久寿雄、サイトウプロセスを設立。1955年、「グラフィック'55展」原弘・河野鷹思・亀倉雄策等による出品作品のなかの一部にシルクスクリーンの作品があった。1957年、サイトウプロセスのカレンダーを粟津潔、杉浦康平らが制作。1958年、シルクスクリーンによる勝井三雄「ニューヨークの人々」が日宣美賞を受賞し若者の注目を浴びる。1959年、この頃から学生のシルク作品受賞が相次ぐ。サイトウプロセスがアトリエ化する様相を呈する。「小さな町工場のサイトウプロセスに、学生にとってあこがれのデザイナーが出入りしている。学生の支払うことのできる範囲の資金でも引受てくれることが魅力であった。『後藤一之などは鍋釜もって、オジサンまたきたよといって10日も泊まり込んでいくんだ。』サイトウプロセスは、明日のデビューを夢見る若者の良き指導者であった。しかも熟練の職人の助言によって表現が深まり、さらに敬愛するデザイナーたちからのさりげない助言が得られる場でもあったのだ。シルクスクリーンのグラフィックの表現をささえる構造は、手切りの版による平面の重ねあわせという、なんともシンプルな印刷原理の肉体化としてとらえられるといってよい。」(『たて組ヨコ組』1987年夏17号 特集=シルクスクリーン 及部克人)
●サイトウ・プロセスの活動については、雑誌『デザイン』(美術出版社)1978年11月、8号が組んだ特集記事「戦後ポスターの疾風怒涛」が詳しく伝えている。1955年にスクリーン印刷を導入し、当時の若手デザイナーや学生たちの溜まり場となった印刷所 サイトウプロセス。職人の協力により彼らのアトリエともなったサイトウプロセスの活動の軌跡と、亀倉雄策、原弘、早川良雄、灘本唯人、大橋正、永井一正、杉浦康平、和田誠、粟津潔、横尾忠則、福田繁雄、細谷巖らによるシルクスクリーンポスター98点(カラー図版20点を含む)を紹介、ソフトカバー、112ページ、サイズ:300×225mm