フォロンのポスター「Un avenir pour notre passe」 |
「欧州建築遺産年」が制定された1975年、当時ベルギーの文化大臣であったアンリ=フランソワ・ヴァン・アールが、“われわれの過去のための未来”を標語に、(建築物に関して)救うべきものは救う運動をヨーロッパに起こそうと願い、そのためのキャンペーンポスターのデザインをフォロンに依頼しました。フォロンが描いたモチーフには、ヒビ割れ崩れ、やがて朽ちていく自らの身体を建築物に喩え、それを何の手立ても無く傍観者のごとくただ見つめていられるのか?、という問いが込められています。ナポレオン三世の治世下、自己の肉体と精神を近代都市パリの姿、またその憂鬱と抒情と重ね合わせ、その精神にひだ、あるいは肉体を流れる血液を余すところ無く銅板に刻み付けることで外界と内なる世界の同一化を図ろうとした19世紀の銅版画家シャルル・メリヨン(1821-1868)には及ばないにしても、思想、哲学、芸術の揺り籠でもあり、独自の生活文化圏を形成してきた都市。人間が創り出したもうひとつの自然界として、それが人間精神と深いところで共振する磁場を発生してきたことを、効率性やスピードを優先する現代社会がもたらした人間不在の中で、再認識することになったのかもしれません。
経済的発展の代償として、有名建築物やモニュメント以外の歴史的市街地が破壊される中、欧州諸国が、1975年を建築遺産保存年として、欧州会議で「都市景観と遺産の保全に関するアムステルダム宣言」を採択すると、欧州各国で歴史的町並みの保存運動により一層の拍車が掛ります。その原動力のひとつとなったのが、「都市、農村、田園において美を育て醜と戦う」という理念のもと、1957年に英国で発足したシビック・トラストであると言われています。我が国でも、神社仏閣などの有名建築物から始まり、高度成長期のなり振り構わぬ近代化による、自己のアイデンティティを形成する郷土の姿や文化の喪失に対する危惧から、過去から現在、そして未来へと受け継がれるべき生活圏を構成する無名で市民的なものへと保存対象を拡大していきます。地域における町並み保存運動の高まりによる伝統的建築物群保存地区制度の制定は、期せずして欧州建築遺産年と同じ1975年ですが、戦後30年、ようやく戦後の復興期を脱出し、経済先導の新しい秩序と社会が築かれる中、地域社会における歴史的伝統文化のバックボーンである都市や町の姿が消滅していくことへの危機感が、歴史ある欧州や日本で同時に発生したことになります。一方、自然を含む全人類的な遺産の保護に関しては、1972年にパリのユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」があり、世界遺産の登録を目的とし、こちらも1975年に発効されています。日本がこの条約に批准したのは、国内の制度と重なっていたためか、縦割り行政の弊害なのか、それとも欧米主導型の制度に対する反発なのか、先進国のなかでは最も遅い1992年で、世界で126番目ということです。
世界遺産には、文化、自然、複合という三つのカテゴリーがあり、収集し分類したものを体系化するという欧米の博物誌的関心がその背景にあるように思われます。一方、強い宗教的背景を持たない日本人にとってのそれは、当初は保護のための客観的な観察対象であったとしても、次第に精神的な意味における自己のアイデンティティの拠り所、霊が宿るところ、あるいは神的性質を帯びたものに変容し、八百万の神々を信奉し、共に生きてきた日本人の土着的な自然信仰の場へと再び戻っていくのではないでしょうか。そこには、アンディ・ウォーホルがエンパイアステートビルの姿を固定カメラで撮った8時間にも及ぶサイレントムービー「エンパイア(1964年作)」に、日常の退屈極まりない時間そのものの真実の姿を観てしまったように、今の時間にしか生きることの出来ない私たちが、すでに存在してきたものの時間の流れと自己の生を重ね合わせ、存在の根源的意味を神的な対象の中に見い出そうとするすことで、大きく口を開き、漆黒の闇の世界に私たちを飲み込もうとする時間という生の征服者と向かい合う力を得たいという願いが常に有るからかもしれません。