フォロンの表紙絵「Creation No.4」 |
今から十数年前のことですが、友人の出張に同行させてもらい、天竜川の川下りやリンゴ並木で有名な長野県の飯田市を訪れたことがあります。友人の仕事の打ち合わせが長引きそうだったので、ローカル線に乗って天竜峡を見に行き、余った時間で市内の画廊を何軒か廻り、繁華街の外れにあった古本屋さんで、カバーも外函もなく、表紙が変色した「作品集 亀倉雄策」(1971年9月10日発行)を発見、これも何かの縁と購入。久しぶりに、東京オリンピックのポスターでも見てみようと、ぱらぱらとページをめくっていると、作品解説と年譜の間にある、編集者の質問に著者の亀倉雄策氏(1915-1997)が答える「質問と答え」というコーナーが目に止まり、見ていると、「プレゼントされたものでたいへん嬉しかったものは何ですか?」という問いに、亀倉氏がいきなり「ミッシェル・フォロン氏から自作の水彩画。」、とフォロンの名前を挙げていて、20年も前の話だというのに、あの亀倉氏もフォロンがお気に入りだったとは、と少々興奮した次第。
ただ亀倉氏がフォロンの名前を最初に持ってきたのは、その他の名前を見る限り、何か特別な思いを抱いてのことではなく、ただ単純に、フォロンからのプレゼントが一番新しく、強く印象残っていたからのようです。では、いつ、どこで、そのプレゼントを贈られたのか。それには、ある人物が絡んでいるようです。その人物とは、東京オリンピックのデザイン部門の綜合プロデューサーを努めた、デザイン評論家の勝見勝氏(1909-1983)その人ではないかと思われます。勝見氏は1966年頃にはすでにフォロンに注目していたようで、1968年に、「グラフィック・デザイン誌」にフォロンの特集を組み、翌69年(昭和44年)には、銀座の一番館画廊で日本初のフォロンの個展「フォロン、グラフィック・デザイン展(4月21日~30日)を開いています。フォロンと亀倉雄策、二人はまるっきりタイプの違う表現スタイルを用いてデザインを行っているように見えますが、前述書の序文を依頼されたのハーバート・バイヤーが言うところの、「彼のデザインの殆どは、焦点を中心に持ってきて、モチーフを一つにしぼっている」「焦点を一つにしぼった時の視覚的効果を知っている。つまり、遠くからでも通る人の興味を呼び、目を引くと言う。」というデザイン理念は、亀倉氏一人のものではなくて、フォロンのポスターデザインの特徴でもあるのです。その二人の才能を認めていた勝見氏であれば、1970年に銀座のソニービルで開かれた「ジャン=ミシェル・フォロン展」(オリベッティ日本支社主催、毎日新聞共催、4月29日~5月5日)に合わせ、夫人と共に来日したフォロンに、友人でもある亀倉氏に引き会わせたとしても何ら不思議ではありません。とすれば、亀倉氏が、フォロンから友情の印として、その時に、あるいは滞在中に、水彩画を贈られる可能性は十分あったのではないでしょうか。真相は、この通りではないかもしれませんが。とはいえ、フォロンと亀倉氏の交流の証しとなるものが、作品集の刊行から20年近く経った、1990年にようやく目に見える形として現われます。
日本がバブル景気に沸いていた1989年に創刊された季刊のデザイン誌「クリエイション」(1989年6月~1994年4月、全20号)は、国の内外を問わず、優れたグラフィック・デザインや美術、イラストレーションを紹介するもので、亀倉氏が編集とアート・ディレクションを行なっていました。表紙は毎号、巻頭特集が組まれる作家の作品が飾る、スイスのデザイン誌「Graphis」の日本版といった感じの作りですが、それはまた、勝見勝氏編集の季刊のデザイン誌「グラフィックデザイン」(1959-1986、全100号)を継承するものでもあったのかもしれません。フォロンは、1990年3月1日発行の第4号で特集が組まれています。1960年代のオリベッティ社の仕事から、80年代末、バブル期の日本の企業が依頼した広告イラストレーションまでをざっと見渡す内容で、作品解説と紹介に54ページが割かれています。表紙には、フォロンが1968年のオリベッティ社の日記帳(Desk diary)の挿絵として描いた12作品の内の一枚が使われています。ネクタイを締め、ブイネックのセーターを着た、四角い顔立ちが特徴的な人物は、その当時、オリベッティ社のアート・ディレクターを努めていたジョルジオ・ソアヴィなのでしょうか。その姿と格好はまた、作家紹介などの写真で見かける、この雑誌の編集長、亀倉雄策氏にも似ているようにも思えます。今はどうか分かりませんが、かつてブイネックのセーターは、オフィスで働く熟年世代の冬の必需品であったようなところがあるので、フォロンは、彼らの姿をステレオタイプ化して描いたのかもしれません。それら信号を、亀倉氏が、この作品に読み取り、表紙絵として用いたとは考えられはしないでしょうか。とすれば、それは亀倉氏からフォロンへのユーモアの返礼ということになるのかもしれません。