フォロンの雑誌カバー「The New Yorker」 |
アメリカを代表する週刊誌、『(ザ)ニューヨーカー』と言えば、ポスターにもなったルーマニア出身の画家・漫画家、ソール(サウル)・スタインバーグの表紙絵が有名ですが、同誌はフランスの週刊誌『(ラ)ヌーヴェル・オプセルヴァトゥールとほぼ時期を同じくしてフォロンに表紙絵を依頼、フォロンは1966年から1973年までに計8回表紙絵を描いています。(ザ)ニューヨーカーもタイム誌と同様、表紙絵を有名画家やイラストレーターが手掛けていることから、特に人気のあるものについては表紙絵だけを別刷りにして販売しています。版権を持たない古書業者は、特別な号を除けばたいした儲けにもならない雑誌本体から、人気のある、あるいは出そうな表紙絵だけを切り離してストックし、収集家やインテリアに用いる人たちの好みに合わせて販売するという方法を採っています。ただそれらの多くは図書館や学校、病院などの公共施設から破棄処分されたものもあり、客のニーズに合わせてというのは後付けの理由で、本当は出所の証拠を消す?ために表紙を切り離されている可能性もなくはありません。しかしながら業者の商魂を非難することなかれ。この表紙を本体から切り離すという行為は、フォロンの作品制作の根幹となっている、『見えている物が表わしているもの』と『其の物が内包しているもうひとつの意味』を同時に視覚化する手法と同じ視点に立脚しているからです。人間は知覚された対象をその機能や形状よって認知することができますが、一方、物の見方がステレオタイプ化してしまう場合もあります。「(ザ)ニューヨーカー」という雑誌を見てみると、それが雑誌であるうちは表紙がどんなに素晴らしいものであっても、それはあくまでも表紙という雑誌を構成する要素にしか見えません。それが一度雑誌から切り取られ一枚のシートになると、額装されれば尚のこと、一枚の絵画作品あるいは洒落たイラストレーションに見えてくるのです。
元手の要らない商売だから売れた分が即利益ということになり、僅かな金額でもこつこつ貯めると結構な金額になります。でもまあそうやってひと手間掛けるだけで、ただの雑誌の表紙からアート作品へと生まれ変わる不可思議さ。生きた情報源としての利用価値が比較的早く消失してしまう雑誌が、純粋に歴史的な価値を帯びるようになるまでにはかなりの時間を要します。一方アートとしての価値の方はそれよりも短いスパンで評価が変わるので、大量にストックしておけば、その時々のニーズに素早く対応することができるというわけ。もっとも、私のようにマイナー志向の人間は、表紙は本体と共にあるべきである、という、ある種の強迫観念にとらわれ易い傾向があり、人知れずその価値を楽しみたい(=一人独り占めしたい)、という不健康な欲望を阻害されてしまうことへの不安を絶えず抱え、悶々とするのである。
最近では、発行元がバックナンバーのデジタル化進め、ホームページ上に《文書館》を設置しているので、誰でも無料で閲覧することができ、「雑誌そのものを介して情報を得る」という身体性を伴う情報収集から、PCを使い、得たい情報により早くより正確にアクセスできるようになっています。さらにデジタル購読を申し込めば、最新号が自動配信されてくるので、雑誌そのものを持つ必要がなくなり、紙文化が近い将来消滅するのではないかとも言われましたが、出版物の発行部数は逆に増えているのだとか。デジタル化に比例して紙の消費量も増加するという状況は一見矛盾しているように見えますが、それには私たちの認知行動の限界が関係しているのかもしれません。私たちは知覚を宇宙すべてに拡大するという相対的な視座を持つことは不可能に近く、絶えず触覚を伴う知覚という『実体性のあるもの』を介して行なっているため、それが物質化された形に変換されることによって、よりリアルに物事を認識することができるのです。そのため既にわかっていることでもメモしたりするように、常に知覚の限界と向き合いながら、ひとつひとつの認識を積み重ねていく必要があるのです。またそれが情報の共有化を確認するツールとして作用することにもなるのです。
通常であれば、本自体をばらばらび解体して売りさばくということは滅多にありませんが、画家本、挿絵本と呼ばれる版画が挿入されている本の場合、本から版画だけを抜き取り、あるいは切り離して額装し販売されるケースが多々あります。挿絵と文章が不可分な存在であるような絵本とは違い、画家本や挿絵本では、文章を読むという第一義的な目的が抜け落ち、画家が文章からどのようなインスピレーションを受け、どういうふうに表現を行なっているのか、という部分に焦点が移ってしまい、文章と挿絵と密接な関係がともすればスポイルされてしまうことも無くはありませんし、逆に画家の絵を通して物語を脳裏に想い描くという構図が成立しないでもありません。
記憶を記録するための装置である写真から、それが本来持っていた記録性が薄れ、詩や物語を創り出す装置へ変質し、現在という主観的時間においては全くの虚構と見えていたものの中、ある種の記録性を浮き上がらせてくれる触媒の働きをしてくれるものが客観的時間であり、その認識が形成される時間偏差を固有の時間と見ることができる。つまり私たちの認識の方向は時間の基点である現在の一瞬間から、常に過去に向って流れていることになる。それは車や電車などの高速で移動する乗り物の中から窓の外を見た時に感じる感覚に喩えると分かりやすい。自分は主観的時間の元、静止した状態にあるが、窓の外の風景(世界全体)は絶えず過去に向って流れていく。そしてその時間の流れは未来という予定された過去から現在という過去までの主観的な時間距離である。然るに写真の記録性はそこにあった時間と現在とを結びつけ、そこにある固有の時間の認識をもたらす装置として働くのであるが、写真が持つ価値が存続し、同時に証明されることになるように、本という物質的な存在が問題になるのではなく、そこにそれぞれ別の性質を持つ文章と挿絵が挿絵本という化合物を形成しているのですが、その結合は非常に弱く、それぞれ安定した分子構造に戻ろうとする性質を持っている、というのはあまりに身勝手な論理であるかもしれません。
昨年末,インターネットの古書サイトで、この雑誌のイラストレーターであったクロード・スミス(Claude Smith)所有のコレクションが一冊5ドル程で売りに出されているのを見付け,早速注文せねばと思ったのはいいのですが、送料が本体の何倍も掛かると判った途端、戦意消失、その後迷いに迷い、あっという間に半年以上経過。先日、もう売れてしまっただろうな、と思いつつサイトを覗いたら、まだ五冊が売れ残っていたので、残りの三冊はどこか別のソースから入手しなければなくなってしまいましたが、漸く注文を出したという次第。
街はいたるところ交通標識や信号だらけ、赤で止まり、青で進む、そんな現代人の生活は自分の心に通じない、と現代社会を辛辣な目で見つめるフォロンの言葉が思い出されます。
夕陽とも朝陽ともつかぬ陽の光が赤く染め上げる、頂きが見えぬ摩天楼と、それらを造り出しながらも地を這う小さき存在でしかない人間との対比は、自然が照らし出す都市という迷路のなかで、絶えず出口を求めて歩き回りつづける運命にあることを暗示しているかのようです。
満月の月明かりに仄かに照られた水辺の情景。帽子の男が水辺に佇み、水面に映った自らの姿を見つめています。ところが水面に映し出された自身や月の姿は四角く、自然の本当の姿ではありません。人は自然共に生きていたはずなのに、自然に倣って人工の世界を造り上げ、止まることなく自然を消費し続けています。そして神が自分に似せてアダムを創ったように、人間もまた自らの姿に似せた機械を創り出そうとしています。その先にあるのは、物事の判断はすべて機械に任せ、機械によって管理された自然と人とが共存するユートピア的な世界なのであろうか。
丘の上を、同じ格好をした人物がひしめき合うように行進していきます.彼らは一様に同じ方向を見ており、誰ひとり疑う者はいません.但し、彼らの向かう先に何があるのか判りません。数珠繋ぎのようにぐるっと一回りしているのかもしれません。只進みつづけることが全てであるかのようです。
フォロンには1969年に制作した「Foultitude」というポスターがあるのですが、“foultitude”は、大勢の人の押し合い、雑踏を意味する“foule”と群集、大衆を示す“multitude”を組み合わせた造語です。この言葉は、人があちらこちらから集まってきて出来る,雑踏や無定見に集まる群集とは違い、軍隊のようにある目的の下に管理された集団のことを言い、、皆同じ身なりで、寸分の違いもなく整列する人たちを、あるいはそのような状況を指す言葉として使います。ここに描かれた普通の人たちも皆同じ姿で、皆一様にこちら側を見ているので、“foultitude”といえるかもしれませんが、そこには自発的な意思はなく、個々の人間が持つ個性や人格を類型化することによって成り立っている現代社会が持つ構造が示されているのかもしれません。
未入手の三冊は以下の通り:
1970年4月11日号
1970年12月5日号
〈2012年10月9日追記〉
1973年12月17日発行のクリスマス特集号。フォロンがデザインした表紙には、クリスマス一色となった都会の夕暮れの情景が描かれています。どれも同じ形をした高層ビルの窓辺には、どこも同じ色のイルミネーションが点灯されたクリスマスツリーが置かれています。そして空の端に赤みを残しながらも暗さを増す青色の空からは、イルミネーションと同じ赤や黄色に加え、青や緑色のカラフルな色をした雪が静かに舞い降りてきます。画一化された都市の姿を描き出しながらも、どこか優しい気持ちで包み込んでいるように見えます。