フォロンのポスター「Macchine Utensili Italiane] |
優れたデザインも製品の持ち味のひとつになっているイタリアの工作機械は、生産でアメリカを、消費ではドイツを抜き、綜合で今や日本を抜き、アメリカ、ドイツに次いで世界第三位の地位を誇っているとのこと。1982年に、「イタリア製工作機械-1980年代の発展」という題で、イタリア工作機械協会(UCIMU)がフォロンにデザインを依頼したポスターは、ドイツ表現主義の画家、フランツ・マルクの色彩を想い起こさせるポスターです。フォロンは、定番となった帽子の男に、視覚化したポスターの主題を重ね合わせることで、二重三重の意味を潜ませています。
先ずは男の頭部。それは一見野獣派の作品のように見えますが、実はイタリアの国旗を表わしていて、緑、白、赤の三つの色を順に使って描かれています。この三色は、ポスターのタイトル「Macchine Utensili Italiane」の三つの単語にも順に配列されていますし、シンメトリックな構図のバランスを取るために、人物の背景にも彩度を落として配色されています。そして、人物の胴と背景の縁に使われた青色が、余白部分との境界を作り出し、見る側の視線を画面の内部に引き寄せるとともに、画面全体の色調を調和させ、機械とは対極にある、詩的な情感を背景に付け加えています。
もうひとつは、人物の目と鼻を表わす形です。それは、ゼンマイ仕掛けの玩具やゼンマイ式の掛け時計に使われるネジ巻き鍵で、機械という概念を表わす視覚言語になっています。「イタリアの工作機械」という言葉を理解出来ないと、この人物がイタリアを、その目と鼻が機械を表わすものであることを読み取れませんが、誰にでも判別できそうな、特徴的な色と目と鼻の形に何かのメッセージが含まれていることには気付くことでしょう。よしんば全く別の意味をそこに見い出したとしても...それはそれで良いのではないでしょうか、自分の心の中にある、何らかの思いを知ることが出来たのだから。実際、このポスターでも、フォロンは意識的に工業をテーマとした主題とは対極的なものに力点を置くことで、作意の有る無しに拘わらず、送り手側の意図に沿った無意識的な判断の形成がなされる可能性のある、一方的な情報と距離を保とうとしています。そして、情報の取捨選択を経て受け手側の意志による判断が形成されるための、イメージを介した言葉のやりとりが行なわれる関係を作り上げようとしているのです。ただ不幸にして、受け手が予期せぬ方向に進んでいったとしても、そのリスクはすべて送り手であるポスターの依頼者が負うというのが、フォロンがデザインを引き受ける条件になっています。
このポスターに使われることになったネジ巻き鍵のイメージはどうやって生まれたのでしょうか。それは、フォロンが収集しているゼンマイ仕掛けの玩具にあるようです。彼はそれらの玩具(ブリキ製の船、自動車、飛行機、ロボットなど)を、それと分かるようにネジ巻き鍵を付けて、このポスターと同時期の胴版画作品に幾つも登場させています。例えば、1979年の銅版画「Sans vie」、1979-80年の銅版画「Dialogue-Jeu de mains」、1980年の銅版画「L’autre voyage」など。年代は少し下りますが、1985年のフォロン展の際に、主催者である毎日コミュニケーションズが出版したシルクスクリーン版画「夜の道」には、屋根の部分にネジ巻き鍵を付けた未来型自動車が登場します。それらの玩具は、今の物と比べれば、さほど精密には作られていませんが、手巻きのゼンマイを動力とした、悠長であったり、ぎごちない動きに、温もりや懐かしさ、あるいは微笑ましさを感じるのかもしれません。
現在テレビなどで紹介される発展途上のロボットの危なっかしい動きにも、古い玩具に似たところがあるかもしれません。今のところロボットは愛すべき存在に見えています。が、わたしたちは遠からず、ロボットが人間と同じように街を歩く、SF小説や映画の中にあった世界の住人になるでしょう。そうなっても、ロボットはあくまでも機械であり、道具に過ぎない、と言い続けることが出来るでしょうか。問題となるのは、感情を持たないにしても、人間の言葉を理解し話すロボットに対し嫉妬を感じる人間が現れることかもしれません。嫉妬は憎しみに変化し、迫害や差別を生み出します。その背景には、劣等感という自分自身への鬱積した不満があり、その原因を、意識しながらも抑制している他者との違いに転嫁し、自己の投影である他者を攻撃し、破壊、抹殺するこで、自己の問題の解決を図ろうとする、そんな衝動が再び起こらないともかぎりません。世界はやはりSFの予言の通りに進んで行くのでしょうか?
2009年7月3日編集