フォロンの挿絵本「Les Derisoires communicants」 |
物質には、それ自体には何ら害は無いものの、他の物質と結びつくと、一気に反応し、毒性を帯びるものがあります。人の心も、そのような物質のひとつであるのかもしれません。私たちの心は通常、理性や道徳、社会通念といったようなもので密閉されていますが、何か非日常的な事象に出会った途端に激しい反応を引き起こします。フォロンと、若き日にシュルレアリスムに傾倒し、1945年のシュルレアリスム国際展に参加した後、1948年のコブラ結成時のメンバーのひとりとなった、ベルギー出身の画家・彫刻家、ポル・ビュリー(Pol・Bury,1922-2005)のふたりが、毒性を帯びた物質を創り出し、即座に反応が起きぬよう、イマージュとエクリチュ―ルに分離し、書物という密閉された容器の中に封印しました。
その容器の名は「Les Derisoires communicants」。1967年にフォロンの挿絵本「Le Portemanteau」を出版した、ポル・ビュリーとAndre Balthazarによって設立されたベルギーの出版社Le Daily‐Bulが編んだ叢書《Campagne de derision》全三巻の内の一冊で、現実の、特にベルギーが抱える、社会や政治、歴史、文化などの問題や矛盾の本質を突き、それを別なものに見立て嘲弄する、政治・風刺漫画の手法を使った、ポル・ビュリーの題字とフォロンのペン画による挿絵(Vignette)24点を収録しています。他に、60部限定で、Oudhollands Van Gelderと呼ばれる上質の紙を使って印刷された、作家の署名入りのものがあります。
この本を、いや容器を開けてみると、横縦3,4cmほどのフォロンの挿絵はページ中央よりやや上、一方装飾文字によって視覚性が高いめられた題字はページの遥か下にそれぞれ配置されているため、どちらか主役なのか分からない構成になっています。それは、文と図は共に脇役であり、それぞれが単独で機能しているように“見えること”、あるいは“思われること”を目した演出である一方、意図的にその両者の結び付きを絶つことによって、逆に主役不在の不自然さ、異常さを際立たせ、見る側に、その謎を突き止めたいという欲求を引き起こさせる動因となっているのです。この二つが私たちの頭の中で結び付くと、ダダからシュルレアリスムを経て、コブラによって主張された、幼児のような純粋無垢な心と批判的精神から生み落とされた物質が、再び合成されるのです。
収録された作品のなかから、ひとつ、ふたつ紹介します。
この意味ありげな作品は、(ある)宗教または宗派の唱える戒律のことを揶揄しているように思われます...
この作品では、代議士の姿勢を槍玉に挙げているようです...
この叢書《Campagne de derision》の標題と飾り絵も、フォロンがデザインしてます。飾り絵は、Derisionというフランス語の意味(愚弄、嘲笑)で使われる、日本にはない、垂直に立てた手の親指を鼻に当てる仕草(親指以外の指を左右に振ることもある)をする、頭が手の形の人物(作品を書く人、あるいは描く人の意で、Pierre Alechinsky,Pol Bury,Folonを指しています)を描いたものです。
はたんと申します。
引っ越したマンションのリビングに絵を飾るために絵を探し始め、1ヶ月前にフォロンに出会い、今日、このすばらしいブログに出会いました。
本当に素晴らしいコレクションをお持ちですね!
私は今、「Zaragoza」のシルクスクリーンを探し続けております...
(もし見つかったとしても、おそらく手の届かない金額だとは思いますが。)
何とも支離滅裂な内容で失礼致しました。
フォロニアムにお立ち寄りいただき、有り難うございます。しばらくページを開いておりませんでしたので、コメントを拝見するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。はたんさんが、フォロンとの対話を楽しんでいただけましたなら幸いです。ところで、「サラゴサ」の版画ヴァージョンはもう見つかりましたか? この大会も、昨年行なわれたドイツ大会もともにイタリアが優勝しましたね。テレビでの観戦でしたが、芝の緑と、ピッチに立つ選手達の色取り取りのユニフォーム姿が強く印象に残っています。1982年の公式ポスターは、フランスに本拠地を持つ大手画廊(Galerie Maeght)が出版したものですが、日本ではミロとタピエス以外に馴染みのある作家が少なく、そんなに多くは入って来ていないと思います。フォロニアムで取り上げたものは、出版から十年以上経ってから購入したものです。当時の価格は1600フランぐらいだったと思います。最近目にしたものは300ユーロぐらいでした。購入の参考になれば幸いです。
では、良いお年をお迎えください。
ご回答頂き、ありがとうございました!
#しばらくネットから遠ざかっていたため、御礼が遅れましたことをお詫び致します。本当に申し訳ありません...
先日、以前問い合わせたアートショップから「Zaragoza」のオリジナルを入手したとの連絡がありました。
もうオリジナルを諦めてビンテージポスターを狙おうと思っていた矢先の連絡、よっしゃあ!と喜びまくったのですが、値段を聞いてうーん...
(300Kは決して高くないと思うのですが、我が家の経済状況がそれを許すかどうか...なんとも情けない話です)
今週末、実物を見に行って参ります!
これに懲りず、またコメントを頂ければ幸甚です!
再度コメントをいただき、ありがとうございます。こちらのほうこそ、すぐにお返事できず申し訳ありませんでした。「Zaragoza」が見つかったとのこと。先ずはおめでとうございます。“300K”とはプロが使う符丁!?、うーむ?? 収入の多い少ないはともかく、何かを手に入れようとすると、それに見合う何かを犠牲しなくてはならないのが世の常であります。観て楽しむだけでしたら、我が身を運ぶだけのことですが、所有に伴う喜びと責任の自覚は、生き物に対するそれと同じものかもしれません。わたし自身はその責任を負い難く、つげ義春の「無能の人」ではありませぬが、所有されるものではなく、打ち捨てられるものに我が身を重ね合わせて見ておる次第です。それとても何がしかの金子が必要とあらば、ええーィ!酒も、タバコも、コーヒーも、ついでに仕事も止めてやる!と威勢良く啖呵を切るにも切れない、ぎりぎりの綱渡りの毎日でございます。
もしよければ、「Zaragoza」をご覧になった感想など、またお聞かせ下さい。
夜分に失礼致します。
早速コメントを頂き、ありがとうございました!
#御礼が遅れて申し訳ありません。
「所有されるものではなく、打ち捨てられるものに我が身を重ね合わせて見る」
うーん...何とも含蓄のあるお言葉。
久し振りに書棚から「無能の人」を引っ張り出し、GONTITIの「無能の人」を聴きながら改めて読み返した次第です。
日曜日、「Zaragoza」、実際に見てまいりました。
第一印象としては、
『デカい』
#阿呆な子供の感想文のようで申し訳ありません(>_<)
いや、ある程度大きいということは認識していたのですが、額付114×83cmは、とにかくデカい。
「こんなでけぇモン飾れんわなー」というのが、正直な感想でした。
でも...でもですねぇ。
何とも魅力的なんですよねぇ。
無限の広がりをみせるグリーンのピッチに、神々しいまでに輝くボールに、魂が吸い取られてゆく...
いや、いけませんいけません。
そんなお金は無いのです。
うーん...どうしようかなぁ。
支離滅裂な文章になってしまい、申し訳ありません。
重ね重ね、失礼致しました。
追伸...
そうそう、前回は300Kなどと意味不明なことを書いてしまい、失礼致しました。私が口に糊している業界では、往々にして1000を"K"(キロ)と表したりするんです。失礼致しました。
追伸の追伸...
実は昨日(月曜)も見に行ってしまいました...
はたんさんの「Zaragoza」体験(感?)、楽しく読ませていただきました。『デカい』、確かにそうですね。でも大きさがポスターの魅力を作り出している要素のひとつであるならば、ポスターの機能性が装飾性と必ずしも一致しないのは仕方のないことかもしれません。収まりどころを得ようとすれば、やはり、それに見合った何かを、、、ということになるのでしょうか。悩ましいかぎりです。通常の暮らしのなかでは、すべての大きさが人の身体を基準して測られてきたように、両の手を差し出したくらいの大きさが、物を見るとき、また扱うときの尺度としてしっくりくるように思います。ですから、それを超えたものということになると、それはある意味非日常的な空間が日常と同居していることになり、意識のなかに収まりがつかない部分を残すことになるのかもしれません。でもどうみても、はたんさんのお気持ちは“ハレ”の状態にあるようですね。
ところで、“300k”のkは、やはり○が三つでしたか。そうではないかと思いましたが、それでは合点が行かなかったものですから...
毎晩遅くに申し訳ありません。
早速のコメント、ありがとうございます!
そうですか...
やはり300Kは高いのですねぇ。
(ビンテージポスターが400$で売られたりしていたので、版画ヴァージョンはそれくらいするのかなぁ、と漠然と納得していました)
でも...うーん。
実は、昨年春に軽く自立神経を失調(ヒラタくいえば軽鬱ですね)しまして、その後徐々に回復しつつも、「晴れときどきぶた」よろしく「晴れときどきカオス」だったりしておりまして、この『Zaragoza』がカタルシスに繋がればよいなぁ...って、息継ぎ無しのような苦しい文章ですいません。
とにかく『Zaragoza』に救いを求めているのかもしれませんね、今のワタシは。
#まぁ、「FOLONが実際に触れた作品を所有したい!」という、単なるミーハー願望を叶えたいだけなのかもしれませんが。
いつものごとく、支離滅裂な文で失礼致しました...m(_ _)m
はたんさんの、「無限の広がりをみせるグリーンのピッチに、神々しいまでに輝くボールに、魂が吸い取られてゆく...」という言葉に、少しドキドキしてしまいました。そこにはたんさんが求めている何かが強く現われていたのですね。フランスの詩人で批評家のアンドレ・シュアレスが画家ルオーに宛てた手紙のなかで、次のように言っています。「芸術家とは、愛をその最も美しいもろもろの形のもとに世に与え、この世を苦悩より救うものです。」
フォロンが現実の世界にある数多の矛盾や悲劇を見、それに苦悩しつつも、「ユーモアとは、悲劇的なことを、悲劇的には語らないと決意することである」という言葉をもって生み出してきた作品に、どれほどのひとが《安らぎ》や《温もり》を感じ、またその背後にある人類愛にみちた眼差しに見守られているのかを,あらためて知ったように思います。
「Zaragoza」への思いと現実的な問題との折り合いをどうつけるかは、はたんさん次第かと思いますが、わたしの経験が少しでも参考になれば...と思った次第です。
「はれときどきぶた」は、どの引き出しにも入っていませんでした。