フォロンのカレンダー「Calendario Snam, 1997」 |
フォロンのカレンダーというと、1970年にオリベッティ社のために制作した2000部限定の壁吊りカレンダーが、70年代前半の、フォロンの出身である北方の透明な光が象徴する内省的な側面を表わした“青の世界”を代表する作品であるとすれば、日本の企業が発行した1989年(!)のカレンダーは、バブル景気に沸く日本なればこそ出来たと言える、フォロンが夢見る“自然と生命の賛歌”を、フォロンの言う南欧的で楽観主義的な光であるオレンジ、ブルー、グリーンによって謳った作品に仕上がっています。フォロンがこのカレンダーのために書き下ろした七点の水彩画のイラストレーションは、日本人の多くが夢の世界の住人であった、あの煌めき華やいで見えた束の間の幻影を映し出すかのように、そこに描かれた人物の愛らしさと色彩の美しさは至上の輝きを放っています。ただ余りの美しさは、儚さや、移ろい=死を象徴するものでもあるのですが。それはさて置き、表紙絵と六枚組みのカレンダー(イラストレーション一点につき、フォロン手書きカレンダーが二ヶ月分レイアウトされています)は、厚手のコットン紙に刷られ、フォロンの手書きの題字が印刷された白いラベルが貼られた、青い紙製のポートフォリオに、無綴じのまま収納されるという、作品集さながらの体裁になっています。尚、このカレンダーに使われたイラストレーションは、亀倉雄策氏編集の季刊誌「Creation-No.4」1990年3月1日発行、に収録されていますので、興味ある方は一度ご覧下さい。
フォロンは1989年に、今度は、イタリアの炭化水素公社(ENI)の子会社で、天然ガス(メタンガス)の供給会社、スナム社(SNAM=Societa Nazionale Amministrazione del Metano)の宣伝広報のデザインを引き受け、1999年までに、二本のアニメーション(YouTubeで見ることができます)を制作し、広告や各種イヴェントのポスターを始め、1993年と1997年のカレンダー、ネクタイ、ポスター集のデザインを行っています。
1993年のカレンダー(オフセット印刷、780x530mm)は一枚もので、(男性)が持つコーヒーカップの中の海を行く船が描かれています。コーヒーが、現実の時間の流れを止め、束の間のトリップを誘う魔法の薬ということなのでしょうか。1997年のカレンダーは、スパイラルリングで綴じられた12枚もので、1993年から1996年にかけて制作された水彩画やポスター用の原画12点がカレンダーに使われています。表紙用に新に4点のオリジナルが描かれ、表裏表紙ともに二枚一組で表紙を構成する仕掛けとなっていて、上になる表紙絵に描かれた窓枠が切り取られていて、この窓を通して下の表紙絵が見える仕掛けになっています。表表紙を捲ると、今度は裏表紙の上になる方が現われます。カレンダーは一応、メタンガスの輸送をイメージ化したものとして作られていますが、青い炎は何かをめぐるおとぎ話として読むことができるようになっています。表紙絵がこの物語のプロローグ。帽子の男が、青い炎を手にして、どこか別の空間から現れます。そして、このカレンダーの12枚の絵の世界を旅し、裏表紙が、この物語のエピローグ。帽子の男に運ばれて来た青い炎は、大空を自由に飛ぶ三羽の鳥に変身し、それが放つ透明な光を、(地球上の)あらゆる所に届けるのです。
二月のカレンダーは、個人的に好きなジャズピアニストの一人、キース・ジャレット(Keith Jarret)の1995年のミラノのスカラ座でのソロ・コンサートのポスター。この時の演奏は、「La Scala」(ECM)というアルバムに収められています。ソロ・コンサートと言えば、かつては、サンベア・コンサート(およそ7時間)を一気に聞かなければ、キース・ジャレットの真のファンではないし、その芸術を理解することはできない、と言われたものですが、どうも日本人好みの求道者的姿勢を求められていただけ(?)のような気がしないでもありません。アンディ・ウォーホルの映画の手法を否定したかのような眠り(6時間)とエンパイアステート・ビル(8時間)よりは変化に富んだパフォーマンスであるのかもしれませんが...。私のような軟弱者は、同じECMに録音されたヨーロピアン・クァルテットのものやピアノトリオの方を好んで聞いている次第。
(人には)五感というものがありますが、気候や風土、民族性なものに根ざした感性の違いというものによって、イギリス人が思う赤と、イタリア人、ドイツ人、アメリカ人のそれとはかなり違っています。それは、各国で出された画集を見比べてみるとよく分かります。それぞれの国の人は、その国の色に対する志向に翻訳された図像を通して、同じひとつ作品を、ほぼ同じ地平で認識していることになります。音に関してもおなじようなことが言えます。今持っているトリオのアルバムは日本版のCDなので、日本人の感覚に合わせたで音質で作られていますが、その音質がすべての人に適しているとは言えません。人によってはイギリス版の方がいいかもしれませんし、フランス版がしっくりくるかもしれません。アルバムジャケットに内藤忠行氏の写真を用いたLP「Belonging」(1974年)のドイツ版を聞くと、日本版とは異なる音の世界を体験します。日本版では、音の粒がひとつひとつはっきりとしているので、それが次第に頭の中に溜まってきて疲れてしまうのですが、ドイツ版は、音が出現したとたんに消滅し、残像のように質量を持たない余韻として残るような印象を受けます。ジャズ、クラシック、民俗音楽、現代音楽等を手段に用いるECMの音楽、あるいは音作りは、音楽の重要な側面であるフィジカルな特性(民族的な独自の音階や単調なリズムから生み出される波長は情動を刺激し、一種のトランス状態へと向かわせる力を持つ)を、敢えて削ぎ落とすことで、身体的な作用ではなくて、詩や絵画のように想像のうちに味わうエッセンスに変容させた、より精神的で創造的な音空間の創出を目指しているかのように思われます。マンフレッド・アイヒャーは、その意味では、音を光のように捉えようとしているのかもしれません。