フォロンの表紙デザイン「Soiree des Chardons」 |
薊(あざみ=Chardon)の花言葉は「わたしのことをもっと知って下さい」というのだそうですが、1989年9月26日の宵、フランス大統領後援、文化・情報相と傷害者および命に関わる傷病担当相参列のもと、“SAMU de Paris”(緊急医療援助組織、パリ消防隊)の情報化を目的とし援助を行なう“M.D.G.A.V.”(Mouvement de Defense des Grands Accidented de la Vie)(1)と、ミッテラン大統領夫人が代表を努める、障害を負った第三世界の子供たちのために活動を行っている“Handicap International”を支援するフランス人権財団(Foundation France-Libertes)の(寄付による)利益をはかるため、「薊の夕べ」とう名の夜会がパリのルーブル美術館に新設されたピラミッドで催されました。主催は“M.D.G.A.V.”で、招待状の表紙をフォロンがデザインしています。
ここで紹介する招待状は、「ニットの女王」と呼ばれるフランスのファッションデザイナー、ソニヤ・リキエル(Sonia Rykiel)夫人に送られたものです。“M.D.G.A.V.”委員会のメンバーにはフランス各界の名士が名を連ねており、その代表は、イギリス出身の映画女優であり歌手のジェーン・バーキンが努めています。委員会のメンバーの一人であるフォロンは、この夜会の招待状のデザインを依頼され、地雷による死傷者の惨状を訴えるために、薊の姿を借り、足がもげてしまった人物を描いています。ちょっと見グロテスクな図像ではありますが、この絵によって、現実に起きている悲劇を一時でも感じてもらい、自国では全く何の関心も払われぬまま見捨てられ、命を終えて行くしかない人たちのことを“もっと知って”もらおうとしています。第三世界に位置付けられる国々では、多くの一般市民が、彼らの意思とは関係なく、大国の利害や国内の覇権争いに巻き込まれ、戦場と化した彼らの村や町を逃惑い、傷を負ったり命を落としています。紛争終結後も、放置されたままの地雷によって更に多くの人たちが死傷しており、とりわけ地雷に触れ足を失ってしまった子供たちの運命は絶望的で、障害者となってしまった彼らが自立して生きていくことは不可能に近く、更なる苦痛を彼らに与えることになります。その意味では、人間として生きる権利を強引に奪われてしまった人たちの内なる声に耳を傾ける道義的責任を負っている先進国の人たちすべてに向けられたメッセージとも言えるのではないでしょうか。
注:
1:1983年、ミッシェル・ギルベール(Michel Gillibert)によって設立された“Mouvement de Defense des Grands Accidentes de la Vie”(多くの命に関わる傷病者の保護活動)は、フランス全土に105の拠点を持つSAMU(Service d'Aide Medicale Urgence)の頭文字を取って名付けられた緊急医療援助組織、中でもパリ消防隊と呼ばれる軍組織への援助団体です。招待状には120人の委員の全員の名が記載されており、ミッテラン大統領夫妻を始め、画家のアロヨ、彫刻家のセザール、映画俳優のジャン・ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、スキー選手のジャン・クロード・キリー、F1ドライバーのアラン・プロストらの名も見つけることができます。
2:“Fondation France-Libertes”(フランス人権財団。1989年当時、ミッテラン大統領の夫人が代表を努めています)は、フランスとベルギーに本部を置くNGO団体“Handicap International”の活動に対する支援を行っています。“Handicap International”は、1982年、タイのカンボジヤ難民キャンプでの援助活動を目的に設立されましたが、その後、世界60カ国の傷害を持つ人々、特に地雷によって負傷した人たちやの暮らしの改善を目的とした活動を行っており、1997年には、地雷廃止キャンペーンによりノーベル平和賞を受賞しています。